欧米経済史 経済学

エレメンタル欧米経済史 近代1 産業革命

投稿日:2019年7月16日 更新日:

欧米経済史の入門です。

よくまとまっていたので整理のために入門編もノート取っていきます。

 

参考文献

エレメンタル欧米経済史 晃洋書房

 

なんか怪しさを感じる表紙ですが、たぶん大丈夫ですよね?

 

今日は 産業革命 中心にまとめます

 

用語集は以下でまとめています

欧米経済史用語集

 

 

産業革命 第12章~第17章まで

 

最初の工業国家イギリス

 

最初の工業国家

 

・1700年から1850年までに人口が630万人から2080万人に増加

・18世紀前半は農村家内工業が展開したが、後半には機械製工業が綿工業を中心に成立し発展した

・1750年頃から工業化したイギリスに続いて、19世紀後半には西ヨーロッパ諸国、19世紀末にはロシア、イタリア、日本、カナダが工業化した

 

産業的啓蒙主義

 

・18世紀半ば、イギリスの中流層には啓蒙主義思想が広がった

・イギリス啓蒙主義の特徴

①イギリスの宗教の合理主義的な潮流の中で誕生した(フランスは宗教と対立した形)
②帰納法的なベーコン主義を土台とした(フランスはデカルト的演繹主義)
③イギリスの啓蒙主義は実践的であり、フランスのように知識人にだけ消費されるものではなかった

 

工業化の制度的基盤

 

・イギリスでは協会・クラブ・ロッジといった様々な団体が商人や製造業中心に形成された。

・その中では正直で誠実であることが社会的評価に繋がっていた

・この考えは、信用取引や地方銀行の基礎となった

 

 

イギリス工業化の特徴

 

・イギリスの工業化は下から始まった。社会全体に広がる技師や職人の分厚い存在と、産業的啓蒙主義の考えを持つ中流層によって行われた。

・フランスにもそういった技術はあったが、多くは国に仕えており貴族階級によって浪費された

 

イギリスの工業化と人口・農業・商業

 

イギリスの工業化と人口

 

・1700年代 530万人 → 1840年代 1590万人

・この要因は、①出生率の増加、②死亡率の低下

・出生率増加:農村工業化、従弟制の緩和、農業労働の需要増加、産業革命後の工場労働需要によって若者の就業機会が増えたこと
・死亡率の低下:救貧体制の整備、公衆衛生への関心の高まり

 

イギリスの工業化と農業

 

・農業生産額はイギリスの人口増加と同じペースで増加した

・また18世紀末は穀物価格が上昇し、規模の経済を獲得するために囲い込みが進行した。

・農業自体も労働力を必要としていたため、農業人口が工業化により流出したのではなく、農村工業や絶対的な人口増加から工場労働者となったと考えられる

 

イギリスの工業化と商業

 

・イギリスの海外貿易は1660年代から1770年代までに量的にだけでなく、質的な変化した

・輸出:1700年時点では毛織物工業が中心だったが、1770年には多様な工業製品が上回った。

・輸入:紅茶、絹織物、煙草、砂糖、コーヒーなど。これらは他のヨーロッパ地域に再輸出された

 

・なお、この時期のイギリス帝国は三角貿易によって特徴づけられる

三角貿易
イギリス本国 → アフリカ西海岸 … 毛織物・綿織物輸出
西アフリカ → 西インド諸島 … 奴隷
西インド諸島 → イギリス本国 … 砂糖・タバコ・綿花など

 

・18世紀初頭には全国的分業が進んでおり、各地を結ぶ交通手段が求められた

 

イギリス工業化以前の工業

 

割愛

 

イギリス産業革命とその帰結

 

産業革命

 

・「産業革命」の言葉を初めて使ったのはトインビー

・クラフツの計算により、トインビーの想定したそれより緩やかだったことが明らかになった

 

綿工業における工場制の成立

 

・飛び杼、ジェニー紡績機、水力紡績機、ミュール紡績機、力織機

・割愛



製鉄業と機械工業における技術革新

 

・コークス製鉄法

・パドル法と 圧延法

 

・ニューコメンのポンプ

 

・ワットのエンジン

 

割愛

 

産業革命の社会的帰結

 

・工場制のインセンティブは、機械化を通して規模の経済を獲得すること

・労働者は旧来の仕事を奪われたことで機械打ちこわしなどを行った

 

・これに対して企業家は、内部請負制という間接雇用システムを採用した

・これは工場主は設備と原材料と運転資本を提供し、熟練職人と契約を結んで生産業務を委託する

 

・資金調達については主に自己資本や借入金などであった

・証券会社で資金調達することは、産業革命期には少なかった

・ただし、手形の割引を受け取るなどはあった

 

ヨーロッパ大陸の産業革命

 

後進資本主義国の産業革命の一般的特徴

 

①後進資本主義国はイギリスが長い時間をかけて達成した技術革新を一挙に導入することができたが、このことは、多額資金を投じて最新の機械設備を揃えなければならないことを意味した。そのため、特に重化学工業では早い段階から株式会社形態をとることが多かった

②カッコ化の工業振興政策や貿易・関税政策が大きな役割を果たした

 

産業革命の開始

 

・ナポレオンによる領土拡大や大陸封鎖令によるイギリス製品の遮断もあいまって、北部を中心にミュール紡績機が広まった

・特に、フランス、ベルギーで綿工業を中心に工業化が開始した

 

・ドイツでは1784年に水力紡績機が導入されたが、大陸封鎖令の崩壊後イギリス製品流入により衰退した

・ドイツの本格的な発展は1834年のドイツ関税同盟以降

 

産業革命の本格化

 

・イギリスでは鉄道建設が最終局面で始まったのに対し、後進資本主義国では産業革命の進行中に鉄道建設が始まった

・そして、それがレールや機関車の需要を創出して、製鉄業や機械工業の発展を促した

 

・フランス製鉄業では国内に有望な炭坑がなく、石炭産出量も少なく定着が遅れた

・それでも1842年「鉄道法」以降は本格化した

 

・ドイツでは1850年代には大陸最大の鉄道延長を維持しながら、鉄道網の骨格が完成した

・ドイル近代的製鉄業の起点は東部のオーバーシュレジェン

・しかし1840年代以降は西部のルール地方が急速に発展し、ドイツ製鉄業の中心となった

 

・ベルギーでは石炭・鉄鋼業では蒸気機関やパドル法は進まなかったが、石炭業はフランス市場向けに生産が拡大した



銀行の役割

 

・イギリスは手形割引が預金業務の核だったのに対し、そのほかの地域では株式会社が重要な役割を果たした。そのため投資銀行が重要な役割を果たした。

 

貿易・関税政策

 

・フランスでは1786年自由主義的なイーデン条約をイギリスと結ぶ。その結果国内の綿・毛織物業が大きな打撃を受けた。

・そのため、フランス革命後イーデン条約は廃止し、保護主義へと回帰した

・ナポレオン体制の崩壊後、再びイギリス製品が流入したため、1814年外国繊維の輸入を禁止し、1818年には鉄・銅・石炭も高率関税をかけた

 

・ドイツでは1834年にドイツ関税同盟が結成される

・オーストリアとは通商条約を結び、ドイツの枠内からは排除した

 

アメリカ合衆国の独立

 

独立革命の経済的意義

 

・営業の自由と貿易の自由を求めた

例)茶法や印紙税法など不満があった

 

独立後の国内経済と対外経済関係の変化

 

・イギリスの重商主義政策から解放されたアメリカは、むしろ他のヨーロッパの重商主義政策の抑圧が増した

・アメリカは巨額の貿易赤字を抱えた

・加えて、独立戦争後の不況で中央政府は危機に陥っていた

・各邦政府は重税賦課や紙幣発行などを実施した

・連邦政府はついに合衆国憲法の制定を実現させ中央集権的国民国家を構築した

 

・合衆国憲法では、国の債務の支払いとそれを裏付ける租税、関税、消費税の賦課に加えて、貨幣鋳造、度量衡標準、郵便制度、統一的破産制度、著作特許制度などを決め国民経済の形成を支援する枠組みを取った

 

・ワシントン政権下ではハミルトンが蒸留酒税法(1791年)、金銀複本位制(1792年)などを成立させた

・また合衆国銀行を成立し通貨価値の安定に努めた

 

南部の経済開発

 

・南部植民地では個人への土地の集積が進展し、大規模なプランテーション経営ができあがった

・当初は白人年季奉公人を使って、米・藍・タバコなどが栽培された

・しかし、独立後は市場価格の暴落により経営危機になったが、綿花に転換することで再興する

 

・綿花需要の増加は綿花栽培の西漸をもたらした。

 

公有地政策と西部開拓

 

・1785年 土地条例により公有地の販売が規定される

・西部に移動して農業を営んだのは、東部の農民やその家族だった

・イギリスでは農民層の分解により工業労働者層が成立したが、アメリカでは西部で農業経営を継続できた

・しかし、西部開拓は厳しいことが多く、移民の多くは都市や農村に留まり、労働者階層を形成した



アメリカ合衆国の産業革命

 

工業化

 

・イギリスは他国への技術移転を厳しく統制していたが、アメリカにとって技術は重要な源泉だった

 

・イギリスの海上封鎖令によって、第二次米英戦争が勃発すると、アメリカは工業製品輸入の途絶に伴う輸入代替を進めた

 

・1813年にはローウェールで力織機を導入し、紡績から織布、染色、裁断まで一つの工場で統合したウォルサム工場が設立

・1830年以降は毛織物工業も工場化した

・1860年にはニューイングランドは綿製品の4分の3を生産した

 

・中部ペンシルベニアではすでに社会的分業が展開しており、多くの鉄製品需要があった

・当初はマニュファクチュアにより進んだが、北部では1840年代には工場制に移行した

・北部では1840年に最初のコークス溶鉄炉と鉄道レールの圧延工場建設

・西部では蒸気機関を備えた鉄加工業も成長した

 

・南部の奴隷制は継続し、綿花プランテーションが北部の工業投資以上に大きな利益を上げた

・そのため、工業に投下するインセンティブを持たず、状態が温存した

 

技術と機械

 

・蒸気機関の導入はアメリカでは遅れた

・しかし、アメリカでは特有の機械・技術発展を見せた

①アメリカの労働組織率が低く、流動性が高かったため、機械による労働の合理化がしやすかった
②寄宿舎などで基礎的教育を提供することで、女性や児童を早くから労働市場に投入して技術変化を受容した

 

・産業革命期のアメリカの労働力は移民だった。

・大量な移民は労働組合の組織を阻害した

 

・アメリカの固有の技術は標準化された互換性部品を用いた流れ作業だった。これをアメリカ的製造方式と呼ぶ

 

州政府の内陸開発と金融制度

 

割愛

 

南北戦争の経済的意義

 

・1857年の恐慌は南北戦争の一つの契機だった

・共和党はカンザス=ネブラスカ法をに激怒した北部地域で設立

 

・南部では綿花が恐慌の影響を受けなかったことで、分離派の声が高まった

・さらに、奴隷価格の高騰により、奴隷解放が困難になった(←?)

 

・南北戦争の結果、奴隷制の解体、ホームステッド法の成立、保護関税政策は決定的な帰結

・また戦争中に、大陸横断鉄道への公有地付与、グリーンバックス(政府紙幣)の発行、国法銀行制度による銀行券統一などが次々に決定した

 

・南部では内戦後、農業も工業も停滞した

・黒人奴隷はシェアクロッパーとして小作性が残り、綿花栽培に従事したが、綿花価格の国際的低下により農民の所得は伸びなかった

 

 

-欧米経済史, 経済学

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