欧米経済史の入門です。
よくまとまっていたので整理のために入門編もノート取っていきます。
参考文献
エレメンタル欧米経済史 晃洋書房
なんか怪しさを感じる表紙ですが、たぶん大丈夫ですよね?
今日は 戦後の欧米経済 中心にまとめます
用語集はこちら
目次
戦後の欧米経済 第23章~第28章まで
両戦間期のアメリカ経済 第一次世界大戦から大恐慌まで
第一次世界大戦とその遺産
・1917年の第一次世界大戦参入とともに、戦時産業局を設置した。政府が経済介入するという経験はニューディール期の迅速な介入へと繋がる
・第一次世界大戦はアメリカへの移民流入を急減させた。(122万人 → 11万人)
・移民の減少は労働力不足をもたらした。
・北部企業は南部黒人を採用し、大量の黒人労働者が北部工業都市に移動した
・戦後は需要の反動や、ヨーロッパの復興により不況に陥ったが、その後アメリカ経済は長期の繁栄を迎えた
大量生産体制とフォードシステム
・戦後不況後も、農民は農産物価格の低下に苦しんだ
・政府は農業保護政策へ踏み出し、公正価格を補償する法案が通過したが、クーリッジ大統領拒否で成立しなかった
・代わりに、農産物の販売協同組合の創設と農産物販売促進法・フォードニー=マッカンバー関税が成立し、農業の保護貿易路線が固まった
・電力や電話などの公共事業、自動車や石油などの新産業が1920年代の経済成長を牽引した
・製造業ではアメリカ的製造方式からフォード・システムと呼ばれる高速・大量生産法市域に移行した
・自動車産業だけでなく電気や家電など産業も採用した
・この大規模化は科学的経営管理手法が必要となった。
大衆消費社会の形成
・大量生産された製品が広く大衆に消費されることとなる
・この大量消費はマーケティング手法の登場をもたらした
国債金本位体制の債権と1929年株式市場の崩壊
・当初アメリカはヴェルサイユ条約を批准拒否など、ヨーロッパから距離を置く姿勢だった
・しかし、フランスがドイツに対して厳しすぎる賠償金を求め、ルール占領が起こるなど緊張が走る
・これに対して、ドーズ案を提案しドイツの賠償金分割支払いと外国借款(ドーズ公債)が実現し、アメリカ資本がドイツに輸出された
・一方で、アメリカ証券が大量に還流していたため、アメリカは債権国となっていた
・アメリカは1919年に金本位制に復帰
・イギリスは1925年に復帰
・アメリカはポンドが過大評価されているとして、金融緩和を実施した
・これにより証券市場の投機は過熱し、世界恐慌の要因となった
両大戦間期のヨーロッパ経済 第一次世界大戦から大恐慌まで
第一次世界大戦の社会的影響
ヨーロッパ経済の地盤沈下
・覇権がイギリスからアメリカに移動
・戦費調達のために対外債務が増加した。特にアメリカは債権国として地位を向上させる
・債務の財源は戦後賠償に頼るしかなくなり、この問題の解決が1920年代の不安定要因の一つになる
産業動員と国家干渉
・総力戦では重工業への産業集中が重要となる
・イギリスでは国家干渉の慎重派が多数だったが、戦争長期化により国家干渉は拡大した。軍需局を設立し軍需品の統制した。1916年に軍需法制定により本格化。
・ドイツでは速やかに産業動員が進んだ。開戦直後原料局を設置し、軍需生産のための軍需生産の確保を行った。また1916年には戦争局を設置した。カルテルの結成が進んでいたことがこうした迅速な対応に繋がったといわれる
・フランスではイギリスより早くドイツよりは遅い。軍需省を設立し対応した。
大戦と社会変動
・工場への女性の進出が進んだ。軽工業だけでなく重工業でも割合が上昇する。
・またその結果戦後の社会的権利拡大、投票権獲得に繋がる
・社会主義者、労働組合への融和政策が進んだ
・労働条件改善や、労働者の権利拡大、組織化など。これにより戦後の労働者の賃金水準が上昇する
・社会保障制度が拡充され、福祉国家への動きが強まる
・フランスは被害が特に大きく、大量戦死と出生率低下によって人口危機を迎える。東欧や北アフリカからの移民を組織的に行い、移民国家となった
1920年代の復興と相対的安定
「正常状態への復帰」とその限界
・特に目標とされたの、金本位制と自由貿易の再建
金本位制
・ ドーズ案 以降はドイツにアメリカ民間資本導入がなされ、賠償支払いの履行が可能となった。この賠償から連合国がアメリカに債務を支払いことで資金循環が行われた。
・ドイツはハイパー・インフレをレンテンマルクの発行により終息し、金本位制に移行した
・イギリス、フランスもこれに続いた
・しかし、金本位制は戦前よりも不安定だった
・ニューヨーク金融市場が台頭し、ドルとポンドが並存した。この国際金融市場の分裂は政治状況によって金融市場間を活発に移動する不動短期資本の動きと相まって再建金本位制の根本的な不安定要素となった
自由貿易
・自由貿易は積極的には進まず、国際貿易は低下する
・イギリスのマッケナ関税(1915年)、産業防衛法(1921)によって保護貿易を開始
・オーストリア=ハンガリー帝国から自立した新興国は保護貿易を取った
・また、戦時中のヨーロッパ諸国の農業力低下は、カナダ・オーストラリアなどの新興農業国を刺激した。そのためヨーロッパ諸国な農業を保護し自給率向上を目指した
国家干渉と市場経済の修正
・国家干渉は戦時中よりも弱まったが、戦前よりは強くなった
現代経済社会への胎動
・ドイツに比べて 第二次産業革命 が遅れていたイギリス・ドイツでも、発展が刺激された
・第一次世界大戦後、国際連盟や国際労働機関(ILO)によって穀さ協調が発展するし、経済協力も進んだ。
・ヤング案によって、対独賠償請求の債権化が図られると、その発行引受としてBIS(国際決済銀行)が設立された。
両戦間期のアメリカ経済 大恐慌から第二次世界大戦まで
大恐慌
・1929年 世界恐慌 発生
・世界恐慌の規模が拡大した要因は金融恐慌ではなく、以下の通り
- 人々の楽観主義を打ち砕き、個人消費支出を激減させた
- スムート=ホーリー法 を成立し、農業保護と関税率引き上げを行った
- 銀行制度の金融政策の誤り:金融政策をとることができなかった
ニューディール
・さらに主要な原因の一つが金本位制への固執といえる
・1933年 管理通貨制度 へと移行した
ニューディールの内容は用語集に載せるので割愛する
第二次世界大戦
・第二次世界大戦への参戦は連邦政府の赤字財政を躊躇なく急増させ、経済復興は完了した
・第二次世界大戦の戦費は3つの方法で賄われた
・租税41%,公債発行37%,通貨増発23%
・価格統制なども行われた
戦後世界経済の再建構想
・戦後構想は武器貸与法を前提とする大西洋憲章に始まった
・アメリカはスターリングブロック解除を要求した
両大戦間期のヨーロッパ経済 大恐慌から第二次世界大戦まで
再建金本位制の崩壊
・アメリカの恐慌によりオーストリア最大の銀行が破産した
・この金融危機はドイツへ波及しドイツから外国短資の流出が続いた
・フーヴァー・モラトリアムにより1年間の支払い猶予が実施されたが、外資の流出は止まらなかった
・イギリスを始め、自治領・植民地各国も金本位制を離脱
・残されたフランス・スイス・ベルギーなどは金本位制維持を掲げる 金ブロック を形成した
・しかし、ポンドやドルの切り下げにより金ブロック諸国の商品は割高になり、解散せざるを得なかった
自由貿易の崩壊
・イギリスは1932年輸入関税法によって自由貿易から転換した
・オタワ協定によって帝国特恵体制を導入しスターリング・ブロックを形成した
・各国は、ドル・ブロック、マルク・ブロック、金ブロック、を形成し世界経済の分断は決定的となった
自由主義の変容
・ケインズ主義による国家干渉が始まった
景気対策と国家干渉主義
ドイツ
・ナチスによる景気刺激政策がとられる
・ 労働創設手形 を発行し、拡張型財政金融政策を実施した
・ ラインハルト計画 に基づく地方公共事業、 アウトバーン 建設、住宅建設などが行われた
・しかし、1934年からは輸入超過により外貨危機が深刻化した
・その後、軍事化と アウタルキー 化を進めた。
・労使関係へも直接干渉し、賃金は低位に抑えられた
・軍需主導の需要刺激政策により内需拡大をもたらし、景気回復が実現された
・1936年夏までに完全雇用状態を実現した
・しかし、外貨危機、食料不足、熟練労働力不足などから、第二次4ヵ年計画を立案し、軍事化とアウタルキー化を徹底した
イギリス
・イギリスは順調に回復した
・それは景気刺激ではなく、金本位制離脱に伴うポンド下落と保護関税政策によるもの
・ポンド下落と帝国特恵体制は輸入減退と輸出の増加に繋がった
・また過剰設備ははカルテルを認めて処理した
フランス
・フランスは金本位制維持により、製品競争力が弱まり輸出は停滞した
・政府は価格引き下げのため公務員の給与引き下げや、公共料金の引き下げを実施した
・大きな政策を打ち出せず、第二次世界大戦前まで本格的な景気回復は見られなかった
戦時経済と戦後改革構想
戦時経済体制の特徴
・戦時経済体制では効率的な経済動員を遂行した
・ドイツでは被占領国からの搾取制度のおかげで軍需生産体制の必要は回避された
・しかし1942年頃に電撃戦が失敗すると、1943年「軍備・軍需省」に権限が集中され、中央集権化された軍需体制が確立
・国家統制制度ではなく、中央計画と私的経営の結合大勢だった
・イギリスでも1941年に軍需生産が統制される
・原料配分管理は工業の企業者団体が引き受けた
・フランスでもイギリスと豪用
第二次世界大戦後のアメリカ経済
パクス・アメリカーナの形成
・ソ連のIMF加盟が絶望的になったことで、イギリスの加盟の準備を早めた
・ギリシア・トルコへの軍事支援をイギリスから肩代わりするに際して、自由主義対全体主義の戦いというレトリック(トルーマン・ドクトリン)を利用した
・加えて国内経済への配慮も行われた。マーシャル援助には国内の農産物余剰を買上援助受取国に販売した代金が充てられた
・援助資金の一部は欧州決済同盟に割り当てられた
パクス・アメリカーナの再編
・アメリカには第二次世界大戦後、軍需の縮小で恐慌の不安が広がった
・そのため、復員兵援護法(1944)や雇用法(1946)が成立した
・しかし、予想に反して、戦時中の繰延需要が爆発し、インフレーションが発生した
・戦後各政権はケインズ政策による積極財政を実施した。加えてヴェトナム戦争への介入などにより財政赤字は深刻化した
・ブレトンウッズ体制 によりアメリカに緊縮的な財政・金融政策をとることなく貿易赤字と対外債務累積を可能にした
・しかし、ドルの過大評価を招き、ドル切り下げの懸念からドル売りが大量に発生
・1971年 金とドル交換停止を発表した
・加えて1973年にはオイルショックが発生
・高失業率と高インフレ率が結合したスタグフレーションが発生した
衰退産業のリストラクチャリング
・アメリカでは1950~1980にかけて産業構造が大きく変化
・農林水産業、製造業の世界シェアは大きく低下
・一方、金融、保険、不動産業は上昇し、サービス業も上昇した
・製造業ではインフレや投資減退による生産性低下により国際協力が低下。大規模なリストラクチャリングが行われた
・また景気悪化回避のため、関連性のない事業を取得するコングロマリット型の統合が多くの企業で行われた
・1966年 農業法により生産量と作付面積のとうせいを撤廃する代わりに価格統制も放棄した
・これにより自由市場農業・グローバル化への転機となった
金融グローバル化と金融危機
・金融部門の拡大は先進諸国の為替と資本のグローバルな取引を契機として伸展した。
・ドルは通貨価値を下げたが、重要性は世界一だった
・ドルは最も規制が少ない通貨の一つ
・世界中に大量に散布されたこと
・新興市場諸国が急速な工業化資金をアメリカ金融市場に求めたこと
・通貨危機に備えて米国債などで外貨準備を蓄積したこと
第二次世界大戦後のヨーロッパ経済
戦後復興と戦後改革
戦後復興期の限界
・ドイツを除けば1947年には工業生産水準は回復したといえる
・当初はドイツに厳しい政策がとられたが、冷戦の展開とともに西ドイツへの復興援助が本格化する
・ブレトンウッズ体制ではヨーロッパに対して過大評価された固定レートが設定されたため輸出が伸び悩んだ
マーシャルプラン
・ マーシャル・プラン は西洋全体の復興という目的と、それ以上の目的を持っていた
- ヨーロッパ資本財供給国の地位にあった、西ドイツ経済の復興によってアメリカからの輸入に依存せず西欧経済の復興・成長を可能にし、西欧諸国のドル不足を解消する
- 西欧諸国の貿易赤字、国際収支危機を解決してブレトンウッズ体制に参加させる条件を作る
- 共産主義浸透を阻止するために長期的な経済成長体制を構築し、貿易市場を統合する
- アメリカ経済の競争力と高い生産性を差焦る制度や価値観など、アメリカがヨーロッパの改革モデルとなるように財政界、官界、労働界の指導者を訪米させる
・マーシャルプランはドイツ復興の承認を条件としていたため、「ドイツ弱体化」を主張していたフランスの対独政策を転換させた
・また1947年にはOEEC( 欧州経済協力機構 )により西欧経済協調が進んだ。 ヨーロッパ決済同盟 (EPU)の設立により域内通貨交換性も回復した
戦後改革
フランス
・フランスの構造改革は①企業・産業の国有化と②経済計画の導入を2本柱とした
・ルノー、銀行、保険、電力、ガス、石炭などが国有化された
・第一次経済計画:モネにより石炭・鉄鋼・電力など「基礎的部門」への資源の優先的分配を基本方針とした
→これら2つの政策により生産性向上した
イギリス
・イギリスではイングランド銀行、電力、ガスなどが国有化された
・しかし経済計画は導入されず、国有企業と関連産業の連携は不十分だった
福祉国家の成立
・イギリスが先頭を切った
・1942年 「ベヴァレッジ・プラン」により家族手当法、国民保険法、労働災害法、国民保健サービス法が制定された
・フランスもこれに影響を受けた「ラロック・プラン」を実施した
・しかし、イギリスほどの統一性を断念し一般労働者、その他労働者、農業、非労働者など制度的分立を特徴とした
・福祉国家の成立により社会保障支出は増大した
・累進課税により所得格差は縮小した
・それは、国内需要の拡大と労使関係の安定に寄与し、高度成長を支える要因となった
黄金時代とその要因
高度成長と輸出の増加
・戦間期に停滞した労働生産性は戦後急激に上昇しアメリカとの格差を縮めた
成長の諸要因
①技術革新と設備投資:アメリカとの生産性を埋めるために積極的な投資が行われた
②貿易の伸び:GATTによる関税引き下げと、西欧域内の貿易自由化の進展
③労働供給の増加:大量の移民・難民が流入した。賃金上昇が抑えられた
④大衆消費社会の成立:大不況と戦争により延期されてきた個人消費は急激に成長
制度的要因
以上の要因のほかにヨーロッパ統合と労働者への還元制度が重要だった
欧州統合
・EPUによって域内通貨の交換性が回復
・1952年 ヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体 ( ECSC )が成立
ECSC:国家主権の部分的以上を伴い、超国家的性格の最高機関に石炭・鉄鋼の管理を求めた。最大の成果はフランスにドイツの経済発展を受け入れさせその後の独仏連携の道を開いた。そして、経済的にドイツ中心とするヨーロッパの経済高度成長の枠組みを作ったこと
・1958年 ヨーロッパ経済共同体 ( EEC )が設立され、共同市場は経済全体に拡張した。加えて共通農業政策を実施した
・1967年 ヨーロッパ共同体 ( EC ) に変更された
・1971年にはイギリス・デンマークなども参加し、拡張EC
・1970年代末には通貨統一と 経済通貨同盟 ( EMU )が目指された
・しかし先送りになった
労働制度
・1951年 石炭・鉄鋼においてドイツの「共同決定制度」は労働者の経営参加が保証された
・オランダ・ベルギーなどでも同様の制度が見られた
・これらの制度は労使関係の安定と生産性上昇の枠内に賃上げを抑制した
・労働コストはほとんど上昇せず、賃金抑制のメカニズムが働いていた
黄金時代の終焉と構造的危機
・1960年代末から生産の伸びに鈍化がみられた
・1973年のブレトンウッズ体制の崩壊と変動相場制及び石油危機によるインフレはこの傾向に拍車をかけた
・これらに対して、イギリスではサッチャリズムで小さな政府を志向した
・大陸では国家干渉の強化・福祉国家の拡充・統合の拡大など
・これは政府支出の増加と増税に帰結し、技術革新を弱め産業転換を遅らせ、国際競争力を弱めた
・ヨーロッパでは単一市場を結成し自由競争を強化する一方、ヨーロッパ社会憲章の制定により、労働者保護を強めた
・さらに1993年 単一市場完成とともに マーストリヒト条約 が発行しEUへと改称した